「遺骨」を捨てる人も、「一族の墓」は維持困難  

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“無形化”する墓 ──「墓は持たない」という選択

2017年10月17日(火)柳生 譲治

高齢社会に突入し年間130万もの人々が亡くなる一方、葬儀を執り行い先祖の墓を守る側の人間は、少子化により減り続けている。直葬、散骨、共同墓、手元供養、墓じまい ── 核家族化や高齢ひとり暮らし世帯の増加といった社会の変容もあり、葬儀や埋葬に関わる状況は激変している。多死・人口減少社会の中で、日本人の死生観にどんな変化が起きているのかについて、葬儀や墓の事情に詳しい第一生命経済研究所の小谷みどり主席研究員に聞いた。

(聞き手は柳生譲治)

激変する葬儀、その背景にあるもの

小谷みどり(こたに・みどり)氏
第一生命経済研究所 主席研究員

大阪府出身。奈良女子大学大学院修士課程修了後、ライフデザイン研究所(現・第一生命経済研究所)に入社。博士(人間科学)。専門は生活設計論、死生学、葬送問題。国内外の墓地や葬送の現場を歩き、大学で生活経営学や死生学などを教えている。主な著書に、『<ひとり死>時代のお葬式とお墓』、『ひとり終活 不安が消える万全の備え』など。

この20年くらいで、亡くなった人の葬儀の簡素化が進んだということを実感しています。今は家族を中心とした身内だけで内々に行うことが主流になっています。

小谷:かつて葬儀は残された者たちの「義務」と考えられており、見栄や世間体もあって葬儀は盛大に行われていました。葬式をキチンと執り行わなければ世間体が悪いと考えられたのです。とりわけ地方では立派な葬式をしなければならないという一種の“圧力”があったと思います。そのために、近所のおばさんたちも葬式の手伝いに駆り出されていました。でも、核家族が当たり前になって、地域社会も大きく変わり、人づき合いも減り、世間体や見栄を気にする人は少なくなりました。

「世間体」や「見栄」を気にする、伝統的意識を持つ人たちが減ったために、葬儀の簡素化や多様化は進んでいった、と。

小谷:それも一つの要因だったと思っています。ほかにも原因を挙げれば、長寿化により故人が高齢のケースが増えたことも、葬儀のあり方に大きな影響を与えています。例えば故人が高齢であれば友人も少なくなりますし、葬儀に参列できる人もかなり減るためです。

 さらに、三世代同居の時代がすでに遠くなり、核家族やひとり暮らし世帯が増えたことも背景にあります。家族の形は大きく変容しました。日本では従来、葬儀は「家」の重要な儀式であり、人生の終末期から死後までの手続きや作業は子孫が担うべきだとされてきましたが、子供たちは成人後に両親と別に住むことが一般的になり、現実として、離れて住む親や親族の葬儀に労力や時間を割くことは難しくなりました。一方、親の側も、「家族に負担をかけたくない」と小規模の葬儀を望むことが増えており、簡素化に拍車をかけています。

核家族化で変容、日本人独特の死生観

死生観も変化している?

小谷:死に対する感覚は、核家族で育った人と、三世代が一つ屋根の下に暮らし仏壇が生活環境にあったような人とでは、大きく異なります。例えば家の鴨居にかけられていた先祖の写真、かつて各家で行われていた「お盆」の行事──そうしたものは、亡くなった人をしのぶ“装置”として機能していました。そこには日本人独特の死生観がありましたが、今ではそうした環境も失われています。そもそも「盆踊り」は本来、地域の人たちで死者を弔うための儀式でしたが、今では単なる夏祭りくらいにしかとらえられていないのではないでしょうか。こうした社会の変容も、伝統的な葬儀の衰退と関連しているのではないかと思います。

 かつては亡くなれば、亡くなった順番に集落の墓地に土葬されました。それが大正時代以降、火葬が普及していくと、先祖の入っている「○○家之墓」に納骨され、子孫たちがその墓を半永久的に守っていくことが当たり前とされるようになりました。しかし、核家族化や少子化で墓を継承していく子孫がそもそもいなくなってしまいました。葬儀やお墓のかたちは、このように社会や時代に応じて、変わってきたのです。

東京都立八柱霊園(千葉県松戸市)に4年前にできた合葬式墓地。合葬式墓地とは、多くの遺骨を一緒に埋葬する形式の墓所を指す。10万体の遺骨を地下に収容できる。円形墳墓になっていて、その前に献花台がある。将来にわたって一族の墓を継承していくことを困難と考えた人が、こうした共同墓に入るケースが増えている。

1990年前後のバブル期には一部で盛大な葬儀も行われていましたが、今ではいわゆる「直葬」(葬式を行わず火葬のみを行う)や、一日葬(告別式と通夜を兼ねて葬儀を行う)といった形も、普通のことになりました。

小谷:葬式の担い手が戦後世代へと世代交代したこともあって、従来の慣習や考え方に縛られずに弔い方を選ぶようになりました。そうした葬式の簡素化に対し批判的な人も、じつはまだ全体の3割くらいいるのですが、「家族が参列するだけなら立派な祭壇を組んでもムダではないか」と考えるのは、自然な流れではないかと思います。

 家族だけで内々に簡素な葬儀を行う人のため、斎場で火葬を行うまでの24時間を家族とともに過ごす「遺体ホテル」のような施設も登場しています。「直葬」は地方では数パーセント程度にとどまりますが、東京ではすでに3割を超えているのではないかという見方もあります。

遺骨を電車の網棚に遺棄する人たち

ただ、死を簡素に扱うようになったといっても、限度がありますよね。死者に対する尊崇の念が薄れ、火葬にした遺骨をそのまま火葬場に置いてきたり、遺棄したりしてしまう人たちもいると聞きます。

小谷:駅のロッカーや電車の網棚などに遺骨を放置してしまう人が増えているようです。ただ、経済的に恵まれていない人が、お墓を買えずにやむにやまれずというケースも含まれているはずです。

 例えば、普段疎遠となっている叔父や叔母がひっそり亡くなって、突然、警察や病院や老人ホームから「遺体をひきとってくれませんか」と突然連絡が来る。でも経済的な余裕がなければお墓をつくることも難しい。血がつながっているからというだけで、何十年も会ったことがない親戚の供養を押しつけられるのはたまらない、という人もいる。仕方なく火葬にした遺骨を遺棄してしまう。もちろん遺骨を霊園や墓以外の場所に捨てるのは違法です(注*1)。遺棄しないまでも、ゆうパックで骨壷をお寺などに送り、数万円で合葬してもらう人も増えています。

(注*1) 遺骨を墓や霊園などしかるべき場所以外に放置すると、刑法190条が禁じている「死体や遺骨などの遺棄」にあたり、3年以下の懲役に処せられる可能性がある(「死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、3年以下の懲役に処する」)。

 しかし、引き取り手のいない遺体や遺骨が増え、電車の網棚に捨てられてしまうような現実がある以上、社会全体としてそういう遺体や遺骨をどのように扱い弔っていくかを考えねばならない時代になったと言えるでしょう。

自治体も近年は、引き取り手のない遺体や遺骨に困っているようですね。引き取り手のない遺骨は、東京都23区で年間約450柱、日本全体で年間約7000柱にものぼるのだとか。

小谷:ひと昔前は、引き取り手のない遺骨は身元不明者がほとんどでしたが、最近ではたいてい身元が分かっています。でも血縁者に引き取りを打診すると、引き取りを拒否されてしまう。

 ただ、先ほど話題にした、遺骨を電車の中に放置する人もそうですが、受け取りを拒否しているからといって、その人たちの心が壊れているわけではありません。葬儀をしたり、お墓をつくったりするには100万円単位でお金がかかりますから、引き取りたくてもできない人もいる。

 誰の死にも冷たいという人は、世の中にほとんどいないと私は思っています。やはり、その亡くなった人との縁の深さも関係しているのでしょう。

“無縁遺骨”対策で横須賀市が始めたサービス

横須賀市の「エンディングプラン・サポート事業」のパンフレットの表紙。

生涯未婚率は高まり、子どものいない夫婦、離婚シングルの人たちも増加傾向ですから、やがては“無縁遺骨”は増えていく一方なのでしょうね。横須賀市が提供している「エンディングプラン・サポート事業」(注*2)のようなサービスが、ほかの自治体にも広がっていくのでしょうか。

(注*2) ひとり暮らしで身寄りがなく、収入・資産が一定額以下の高齢の市民を対象として、死後の手続きを支援するサービス。市役所の職員が葬儀や納骨についての意向、リビングウィル(延命治療意思)などを本人から聞き取り、一緒に終活支援プランを立てる。希望者は同時に、葬儀社と生前契約を結ぶ。引き取り手のない遺体や遺骨が急増していることからこのサービスを開始した。


小谷横須賀市は、高齢者の葬儀やお墓の問題に手をさしのべる自治体の先駆けだと言えます。これからの時代は、「死んだ時に、残される家族がいる」ことが当たり前ではない社会になります。自治体のサポートで、そうした「ひとり死」の状況にも対応できるようにするという試みです。

 神奈川県大和市千葉市が同様の制度を開始しました。でも、こうした試みが全国各地にあまねく広がっていくかというと、やはり自治体の予算の問題が壁になるでしょう。例えば2000年以降のわずか17年間で生活保護を受けている高齢者世帯数は2.4倍以上になっており、今後高齢者福祉にはさらにお金がかかります。

 生きている人に対する福祉が必要なことは誰も異論はありませんが、すでに多死社会の現在、死後の葬儀や埋葬までサポートする経済的余裕がすべての自治体にあるのかどうか。福祉政策について「ゆりかごから墓場まで」という言葉がありますが、日本で福祉の対象となるのは亡くなる瞬間までで、「墓場(亡くなった後の対応)」は福祉がカバーする範囲の外なのです。

遺骨をダイヤに、故人をしのぶための「手元供養」

墓の継承ができるかどうかわからないため、墓は作らず・持たずの人が増え、散骨も一般的な葬送の形としてきっと普及していくのでしょうね。また、霊園の樹木を墓標として遺骨を土中に埋める「樹木葬」も増えていると聞きます。こうした散骨や樹木葬など、墓の“無形化”の流れでは、ほかにどのようなものがありますか。

稲城・府中メモリアルパーク(東京都稲城市)内の樹林葬を行うための「樹林式墓地」。直接土に触れるかたちで木の下に遺骨を共同埋葬する。(写真:PIXTA

小谷:「手元供養」はその一つではないでしょうか。亡くなった父母など近親者や大切な人の遺骨を手元に置いておくという人が増えています(注*3)。もちろん、経済的に十分な余裕がないために墓を持たず、遺骨を家に置いておくという人もいますが、近くに置いてときどき話しかけたり、手を合わせたりして、身近にその存在を感じていたいという気持ちが強い人が選択するのだと思います。

(注*3) 「墓地、埋葬等に関する法律」では、遺骨を自宅の庭に埋めることは禁じているが、遺骨を自宅に安置しておくことは問題ない。

手元供養に使用する「ご供養家具」の例。上段の写真は遺品などを収納する祭壇。下段の写真はリビングに置くことも想定した納骨祭壇。骨壺は祭壇の下に収容できる(粉骨せずに納骨できる)。(写真提供:トータルリビング ユウキ)

 遺骨を骨壺の中に入れたまま安置するケースのほか、ペンダントなどに入れたり、ダイヤや石などのアクセサリーに加工して常に身に着けたりする人もいます(注*4)。故人の存在を常に近くに感じ、「生活の中で故人をしのびたい」「故人に見守っていてほしい」という気持ちの強い人は、こうした個性的な供養の方法を選ぶことも珍しくなくなるでしょう。

(注*4) 歌舞伎役者・中村勘三郎(18代目)さんが亡くなった後、寂しさや喪失感を埋めるために勘三郎さんの妻が遺骨の一部をダイヤにして身につけていたことが話題になったこともあった。

遺骨の成分から作られた人工ダイヤ。(写真提供:アルゴダンザ・ジャパン)

 ちなみに、葬儀の簡素化や多様化といった変化は、日本に限ったものではなく、これは海外もほぼ同様です。ただし、発展途上国や未開の地域はいまも葬式は立派なものです。それは現在も相互に助け合わないと生きていけない社会であって、人間関係が濃密なことの証拠です。逆に社会が経済的に発展していけば、たいていのことはお金で解決できますし、人間同士の関係は希薄になりがちです。例えば日本では介護が必要になった高齢者は、介護施設に入ることが近年は一般的になりました。そうした社会環境も葬儀やお墓の変化に反映しているのです。

無縁化する墓、誰に墓を託すのか

ご著書『<ひとり死>時代のお葬式とお墓』の中には、墓の“無縁化”のエピソードとして、熊本県人吉市で2013年に市内の墓地を調査したところ4割以上が無縁墓になっており、中には8割以上が無縁墓になっている墓地もあるという記述がありました。空き家と同様に無縁墓も今後問題視されていくのではないでしょうか。

東京都立八柱霊園(千葉県松戸市)の合葬式墓地にある電子墓誌。埋葬された人の名前や埋葬年月日を表示できる。

小谷:じつは無縁墓の問題はすでに1980年代からマスメディアなどで報道されるようになっていましたが、その頃はまだ「子供がいなくて家が途絶えたかわいそうな人たち」といったイメージでした。しかし、少子化が進んだ現在では、大半の人が「自分たちの問題」「みんなの問題」であって、「社会的な問題」であることに気づいています。

 私の行った調査では、自分のお墓が今後無縁化しないと思っている人は、もう1割程度しかいません。言い換えれば、今ではほとんどの人は自分の墓が無縁化する可能性があるという不安を抱えているのです。「墓を荒れさせるよりはまし」と、生前に自ら「墓じまい(墓を処分して撤去し更地にする。遺骨は永代供養の共同墓などに移したり、散骨したりする)」を行う人も増えています。

 人口が減ったうえ、生まれた場所で一生を終えるというライフスタイルの人は少なくなり、「○○家之墓」はもはや維持できなくなってきている以上、別の方法を考える必要があります。一つの方策としてあるのは、親族に限定せずに血のつながらない人たちで墓を共有するという考え方です。「共同墓」や「合葬墓」「永代供養墓」といったものです。お寺やNPOなどが主体となって運営・管理していく形になります。自治体が共同墓を新設するケースも増えています(前掲写真の東京都立八柱霊園など)。

 さらにもう一つの傾向は、さきほども話題に上がりました、墓の“無形化”。「墓は作らない」という選択です。散骨については、つい20、30年ほど前までは「葬送の方法として好ましくない」(注*5)と忌避する人が主流でしたが、映画「世界の中心で、愛をさけぶ」(2004年)や高倉健さん主演の映画「あなたへ」(2012年)で散骨が描かれたこともあり、特殊な葬送な方法と考える人は減りました。今では当たり前の選択肢になりましたね。私が8年ほど前の2009年の時点で実施した調査でも、死んだら散骨してほしいという人が3割近くもいました。

(注*5) 散骨はかつて「刑法190条や『墓地、埋葬等に関する法律』に違反しているのではないか」という意見もあったが、1991年に法務省が「節度を持って葬送の一つとして行われる限り、散骨は遺骨遺棄罪にはあたらない」という見解を示した。これにより事実上認められるようになった。楽天リサーチの2014年の調査では、女性の約2割、男性の1割がすでに自分が死んだら散骨してほしいと希望している。

海洋散骨の風景。(写真:PIXTA

 ただ、お墓の望ましいあり方は、そこに入る人と残される人の、双方の観点から考える必要があるのではないかと私は思っています。残される人にとっても故人をしのぶ場がほしいという希望があるかもしれません。一方、亡くなる人にとっては、家族に死後にお参りしてもらえるという確証が、死の不安を軽減することが分かっています。葬儀や埋葬の形が多様化する中で、どのような方法であれば、双方が安心感を得られるのかという観点も、墓や供養の方法を考える上での重要なポイントであると思います。

死の恐怖を安心に変えるために ── 新たな関係をどう築くか

現代では一緒に住む家族のいない人もたくさんいるわけですが、お墓だけでなく死後の様々な手続きを、血縁関係にない知人や友人に託すということはあり得るでしょうか。

小谷:あると思います。日本では人生の終末期を肉親に頼る傾向が強いですが、海外では友人・知人に頼るのはよくあることです。

 少子社会・非婚社会の現代では、今後は血縁に頼らず、同じ帰属意識からなるコミュニティ──例えば老人ホームやサークルなど──の仲間が亡くなれば、そのコミュニティに属する人が葬儀を行い、やがてはみな同じ墓に入るといったことも増えていくでしょう。実際、希望者が話し合って集合住宅を建設する「コーポラティブハウス」のように、血縁を超えた人たちが話し合って一緒に入る墓を用意するケースも出てきています。

 今後の高齢社会は誰にとっても未知の世界です。でも、人は死ぬ時に自分をしのんでくれる人がいれば、死への恐怖が安心感に変わると言われています。今後は頼るべき家族を持たない人がさらに増えていくわけですから、血縁を超えて友人や知人たちとのつながりを育んでおくことは大切なことです。子孫の手で葬られるという伝統的な葬祭のスタイルが維持できなくなっている現代では、普段から周囲の仲間や知人たちとどんな関係を築くことができるかが、問われるようになっていくのです。